神童、大陸を駆ける – 黎明期の軌跡
1893年12月13日、ポーランド中部の町ヴァルタで、シュカルスキはこの世に生を受けた。幼少期をギドレで過ごした後、1907年、彼は母と姉と共に新大陸アメリカを目指す。シカゴで待つ父と合流するためであった。この移住が、彼の運命を大きく動かすことになる。わずか13歳にして、彼はシカゴ美術館附属美術大学への入学を果たす。周囲が「彫刻の神童」と舌を巻くほどの早熟な才能であった。
しかし、彼の魂は故国ポーランドを渇望していた。シカゴで活動していたポーランド人彫刻家アントニ・ポピエルの強い勧めもあり、彼は再びポーランドへと帰還する。若くしてクラクフの名門、ヤン・マテイコ美術アカデミー(当時のクラクフ美術アカデミー)の門を叩いたのである。入学試験において、全身を描くのが通例である中、モデルの膝だけを彫り上げて合格したという逸話は、彼の非凡な才能と、既成概念にとらわれない反骨精神を鮮烈に物語っている。だが、アカデミーの保守的な教育システムは、彼の自由な精神と衝突した。「時代遅れで保守的」 – 後に彼はそう断じ、わずか3年でアカデミーを去り、1913年、再びシカゴの地を踏むのである。
シカゴ・ルネサンスの旗手、そして物議を醸す才能
再び降り立ったシカゴで、シュカルスキは精力的に活動を開始する。極貧にあえぐ時期も経験しながら、彼は彫刻とドローイングに没頭。やがて、作家ベン・ヘクト、詩人カール・サンドバーグ、弁護士クラレンス・ダロウといった、当時のシカゴ文化シーンを彩る重要人物たちと交流を深め、「シカゴ・ルネサンス」と呼ばれる芸術運動の中心的存在となっていく。1914年以降、彼の作品は定期的に展示され、その独自性が注目を集め始めた。
シュカルスキの芸術は、初期から圧倒的な個性を放っていた。物理的なサイズに関わらず、常にモニュメンタルなスケール感を持ち、描かれる人物の筋肉は極限まで引き伸ばされ、誇張された人体表現と深く彫り込まれた顔立ちが特徴であった。神話、エロティシズム、原始主義、英雄的叙事詩、そしてシュルレアリスムの要素が混然一体となり、観る者に強烈な印象を与えた。特に、世界の原始美術、とりわけ古代メソアメリカ(アステカ、マヤなど)の芸術に深い関心を寄せ、その影響は作品の随所に見て取れる。未来派のダイナミズム、印象派の感情表現、キュビスムの幾何学的構成をも呑み込み、彼は自らのスタイルを「ねじれた古典主義 (Bent Classicism / Classicisme tordu)」と称した。
その才能への自負心は、時に傲慢とも取れるほど強烈であった。「私はロダンを片方のポケットに、ミケランジェロをもう一方のポケットに入れて、太陽に向かって歩いているのだ」。そう豪語した彼の態度は、美術界のエスタブリッシュメントとの間に軋轢を生むことも少なくなかった。ある批評家(モンテギャルス伯爵とされる)を階段から突き落としたという真偽不明の逸話も、彼の激しい気性を物語るものとして語られている。
1922年にはヘレン・ウォーカーと結婚。1923年には作品集『The Work of Szukalski』が出版され、彼の名は着実に広まっていった。
祖国への帰還、栄光と論争の幕開け
1923年、第一次世界大戦を経て独立を回復したポーランドに、シュカルスキは帰国する。裕福な画家であった妻ヘレンとの結婚は、彼に経済的な安定をもたらした。しかし、彼の野心は、単なる芸術家としての成功に留まるものではなかった。彼は、西欧文化の影響、特にフランスからの影響が強いと見なした当時のポーランド芸術界を痛烈に批判し、忘れ去られた古代スラブのルーツ、ピアスト朝時代の異教文化への回帰こそが、真の「ポーランド性 (Polishness)」を取り戻す道であると熱弁した。「汚染されていないポーランド性」を保持しているのは農民文化であるとし、民俗芸術への回帰を強く主張したのである。
その思想は、具体的な行動となって現れる。彼は、母校でもあるクラクフ美術アカデミーの廃止を公然と要求。代わりに、自身が唯一の指導者となる芸術学校「トゥヴォルツォフニャ(Twórcownia、創造の場)」の設立を提唱した。そこでの教育法もまた、彼の独創性を反映したものだった。モデルを写生する古典的なデッサンを廃止し、記憶と想像力に基づいた描画を推奨。さらには、油絵具の使用停止まで要求したのである。これらは、既存の芸術教育への真っ向からの挑戦であった。
1925年、シュカルスキはキャリアにおける大きな転機を迎える。ヴィリニュス(現リトアニア領、当時はポーランド領)に建立される予定だったポーランドの国民的詩人、アダム・ミツキェヴィチの記念碑コンペティションに応募。彼が提出したデザインは、衝撃的なものだった。裸体のミツキェヴィチが、アステカのピラミッドを思わせる形状の台座の上にある、生贄の祭壇のような場所に横たわるという、極めて前衛的かつ異教的なイメージであった。このデザインは審査員から最高評価を受け、一等を獲得する。しかし、そのあまりの斬新さと異教的要素は、カトリック教徒が多数を占めるポーランド社会、特にヴィリニュスの保守的な層から激しい反発を招き、国内世論を二分する大論争へと発展した。結果、この計画は別の作家に委ねられることになったが、デザインを巡る混乱や資金難、そして最終的には第二次世界大戦の勃発により、記念碑そのものが実現することはなかった。
同年、パリで開催された万国装飾美術博覧会(アール・デコ博)にも参加。ここで彼は多くの賞を受賞し、国際的な評価を得る。しかし、皮肉なことに、この成功はポーランド国内で新たな批判を呼んだ。これほど評価の高い芸術家が、なぜポーランドに永住しないのか、という声がメディアで高まったのである。翌1926年には、娘のエルジュビェタ・カリナ(愛称カリンカ)がパリで誕生している。
「角のある心臓の部族」と過激化する思想
1929年は、シュカルスキにとって重要な年となった。クラクフで大規模な回顧展が開催され、彼の芸術家としての地位は確固たるものとなる。同年、彼はデザイン集『Projects in Design: Sculpture and Architecture』をシカゴ大学出版局から刊行。そして、自らの芸術思想を共有し、ポーランド文化の革新を目指す芸術運動「角のある心臓の部族 (Szczep Rogate Serce)」を結成するのである。
このグループは、シュカルスキを「スタフ・ズ・ヴァルティ(ヴァルタのスタフ)」、あるいは神話上のクラクフ建国者「クラク」として崇拝し、メンバーはそれぞれ古代スラブ風のニックネーム(例:マリアン・コニェチュニは「マシンスキ」、スタニスワフ・マルシナは「ヴォイミール」)を名乗り、独自の制服を着用した。彼らの目標は、シュカルスキの指導の下、「西欧の古い召使」と彼らがみなす既存の芸術エリートと戦い、古代スラブの精神に基づいた新しいポーランド文化を創造することにあった。この運動は、シュカルスキのカリスマ性と、当時のポーランド社会に存在した民族主義的な気運を背景に、一定の支持を集めた。
しかし、この頃から、シュカルスキの思想は、単なる芸術運動の域を超え、より政治的、かつ過激な色彩を帯び始める。彼は熱烈な愛国者であり、そのポーランドへの愛は、時に「ポーランド性」そのものを個人崇拝の対象とするカルト的な様相を呈した。独立ポーランドの指導者ユゼフ・ピウスツキ元帥を神格化する一方で、ポーランド社会の根幹であるカトリック教会の影響力を強く否定し、キリスト教以前のスラブ異教への回帰を声高に叫んだ。
その権威主義的な性格は、当時ヨーロッパで台頭していたファシズムへの共感を招いた。そして、それは強烈な反ユダヤ主義へと結びついていく。彼の反ユダヤ思想は、単なる偏見にとどまらず、世界をユダヤ人の陰謀によって動かされていると信じる偏執狂的な側面も持っていたとされる。
この思想は、具体的なデザインにも現れた。彼は、ポーランド第二共和国の新しい国章案として、斧(Topór)と鷲(Orzeł)を組み合わせた「トポジェウ(Toporzeł)」をデザイン。このデザインは、一部の民族主義団体によって採用された。さらに過激なものとして、斧と十字架を組み合わせた「トポクシシュ(Topokrzyż)」をデザインし、これを反ユダヤ経済ボイコット運動のシンボル(GOJ - Gospodarczo Odrodźmy Ojczyznę / 経済的に祖国を再建せよ)として提唱したのである。
彼の構想は、ポーランド一国にとどまらなかった。イギリス、フランス、イタリアを除くヨーロッパ諸国による連邦国家「ノイローパ(Neuropa)」を提唱し、ポーランドがその指導的役割を担うべきだと主張。そのエンブレムには、ナチスのハーケンクロイツとは逆向きの卍(ガンマディオン、スワスティカ)が含まれていた。また、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニをモデルとした記念碑「レムッソリーニ(Remussolini)」のデザインも残されている。これは、狼の毛皮を被り、ファシスト式敬礼をする裸のムッソリーニという、グロテスクかつ阿諛的なものであった。1930年代後半には、ナチス・ドイツ政府からアドルフ・ヒトラーの記念碑制作の打診を受け、デザインを送ったという情報もあるが、これを裏付ける物的証拠は見つかっていない。
1938年には、唯一の文学作品である戯曲『Krak』を発表。古代の神話的なポーランドを舞台とし、意図的に古風なポーランド語で書かれたこの作品は、クラクフの伝説であるヴァヴェルの竜の物語を独自に解釈している。作中では、竜は人々を支配する長老たちが作り出した機械仕掛けであり、その長老たちは異国の神「ヒェ・ヴェ(Hjeh Weh)」(明らかに旧約聖書の神ヤハウェを示唆している)を崇拝していることが暴かれる。そして、若き英雄クラク(シュカルスキ自身を投影)が若者たちを率いて長老たちを打倒し、真のポーランドを取り戻すという筋書きであった。これは、「角のある心臓の部族」へのマニフェストであり、行動喚起であったとも解釈されている。
栄光の頂点、そして戦争の暗雲
1932年に最初の妻ヘレンと離婚。1934年にはハリウッドでジョアン・リー・ドノヴァンと再婚する。そして1936年、シュカルスキはポーランド政府からの手厚い財政支援を受け、本格的に祖国へ帰還する。彼はもはや単なる一芸術家ではなく、国家的な英雄として迎えられた。「ポーランドで最も偉大な存命芸術家」という称号と共に、ワルシャワ市内に「シュカルスキ国立美術館」と称される巨大なスタジオを与えられたのである。
彼は、ポーランド初代国王ボレスワフ1世勇敢王の記念碑制作や、カトヴィツェに新設されるシレジア博物館のファサード装飾など、国家を象徴する数々の大規模プロジェクトを依頼された。アメリカにあった自身の作品の多くをポーランドに持ち帰り、まさにキャリアの頂点を極めたかに見えた。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。ヨーロッパには戦争の暗雲が垂れ込め、ポーランドはナチス・ドイツとソビエト連邦という二つの全体主義国家に挟まれ、緊迫した状況にあった。そして1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発したのである。
ワルシャワはドイツ軍による激しい爆撃に晒された。シュカルスキもその戦火に巻き込まれ、ワルシャワ包囲戦の最初の爆撃の一つで負傷。そして、彼の誇りであった「シュカルスキ国立美術館」は破壊され、そこに保管されていた彼の生涯の作品の大部分が、灰燼に帰したのである。彼はアメリカ市民権を持つ妻ジョアンと共にワルシャワのアメリカ大使館に避難し、辛くも戦火を逃れてアメリカへと亡命する。ポーランドに残された彼の作品の多くは、その後のナチス・ドイツによる占領下で破壊されるか、略奪され、永遠に失われることとなった。ポーランドでの栄光は、わずか数年で、戦争という名の暴力によって無残にも打ち砕かれたのである。
亡命、カリフォルニア、そして奇想科学「ゼルマティズム」へ
1940年、シュカルスキ夫妻はロサンゼルスに移住。新たな生活を始めることを余儀なくされた。彼はハリウッドの映画業界で、セットデザインや小道具としての彫刻制作などの仕事に就き、糊口をしのいだ。しかし、かつてのような大規模な彫刻制作に打ち込む機会は失われていた。同胞であるポーランド人に対しては、戦争体験も相まってか、時に辛辣で否定的な見解を示すこともあったが、一方で、自身の「ポーランド性」と祖国への愛を誇示し続けるという、矛盾した態度を見せていた。
そしてこの頃から、シュカルスキの関心は、現実の彫刻制作から、壮大かつ非現実的なプロジェクトの構想と、そして何よりも、彼独自の奇妙な疑似科学的歴史理論の構築へと傾斜していく。きっかけは、1940年頃に聞いたラジオ放送であったとされる。スウェーデンの地名「Bohuslän」が、古代スラブ語の「Bogu Slan(神々に送られた)」に由来するという説(実際には古ノルド語由来)を聞いたシュカルスキは、ここに自身の理論の閃きを得たのだ。
これが、彼が生涯を捧げることになる「ゼルマティズム(Zermatisme)」の始まりであった。彼は、先史時代の人類の起源、言語、信仰、芸術、そして民族移動の謎を解き明かそうと、驚異的なエネルギーを注ぎ込み始めた。
ゼルマティズムの中核をなす主張は、以下のようなものであった。
人類の起源はイースター島: 全人類の文化は、太平洋に浮かぶ孤島、イースター島で誕生した。
大洪水とツェルマット: イースター島で高度な文明が栄えたが、世界的な大洪水によって壊滅。生き残った人々が、スイスのツェルマット(Zermatt)に辿り着き、そこで新たな文明の礎を築いた(これが理論名の由来)。
原言語「プロトン」: かつて全人類は、「プロトン(Protong)」あるいは「マチモヴァ(Macimowa、母語)」と呼ばれる共通の言語を話していた。この言語は、古代ポーランド語の方言に酷似している。
全言語の起源: 現在世界で話されている全ての言語は、この「プロトン」から派生したものである。シュカルスキは、世界中の地名(バビロン、ローマ、ロンドンなど)や歴史上の人物名(イエス、ゼウスなど)を、強引な語呂合わせや独自の解釈によって「プロトン」に由来すると主張した。
その他の奇説: 部族が顔に入れる刺青(タトゥー)は、大洪水の際に水面に浮かんでいた人間の死体の痕跡が体に付着した名残である。各国の国章に描かれる鷲の向きは、大洪水の際の波の方向を示している。ドイツ人は、もともとポーランド人だった人々がドイツ化したものである、など。
イェティンシン – 陰謀論的世界観
ゼルマティズムの中でも、特に異彩を放つのが「イェティンシン(Yetinsyny)」に関する陰謀論である。シュカルスキは、人類の歴史とは、善良で知的なホモ・サピエンスと、ヒマラヤの雪男イェティに代表される、邪悪で愚鈍な類人猿(ビッグフットなども含む)との、終わることのない闘争の記録であると説いた。
彼はダーウィンの進化論を真っ向から否定し、人類とイェティは生物学的に異種でありながら交配が可能であると信じていた(主にイェティによる人間の女性へのレイプを通じて)。そして、その交配によって生まれた忌まわしい子孫が「イェティンシン(Yetinsyn - イェティの息子)」であるとした。イェティンシンは、円錐形の頭蓋骨と短い首を持つという身体的特徴で識別できると主張。
さらにシュカルスキは、歴史上の多くの著名人を、このイェティンシンであると断定した。そのリストには、ウラジーミル・レーニン、ミハイル・バクーニン、ニッコロ・マキャヴェリ、ウィンストン・チャーチル、ニキータ・フルシチョフ、フィデル・カストロなど、彼が敵視する、あるいは特異な容貌を持つと見なした人物が含まれていた。そして、ファシズムや共産主義といった、彼が否定的に捉えるあらゆる「イズム(-ism)」は、これらのイェティンシンによって生み出され、世界に混乱と悪をもたらしている元凶であると結論付けたのである。
この壮大かつ奇怪な理論体系を、シュカルスキは40年以上にわたって探求し続けた。その成果は、『Należy Mi Się Cały Świat(全世界は我がものに属す)』と題された、全42巻、総計25,000ページ以上に及ぶ膨大な手稿にまとめられた。そこには、彼の主張を図解するための、14,000点を超える緻密な挿絵が含まれており、中には虫眼鏡を使わなければ細部を確認できないほど精密に描き込まれたものもあった。これらの手稿は、現在、シュカルスキ・アーカイブスによって保管されている。
ゼルマティズムに科学的な根拠は一切存在しない。言語学、考古学、人類学、歴史学のいずれの見地からも、完全に否定される疑似科学である。しかし、その常軌を逸したスケール、細部への異様なこだわり、そして何よりもシュカルスキ自身の芸術作品と通底する美的表現力は、一部の人々を強く惹きつけた。彼の知人たちは、彼が「狂っていたわけではない」としつつも、「明らかに間違った、馬鹿げた理論に基づいたファシスト的・人種差別的な感情」を抱いていたと証言している。ゼルマティズムは、彼の歪んだ世界観と、芸術的創造性が奇妙に融合した、晩年の巨大な「作品」であったとも言えるだろう。
芸術スタイル – 「ねじれた古典主義」の神髄
シュカルスキの芸術は、そのキャリアを通じて一貫した力強さと独自性を保ち続けた。彼のスタイルは、しばしば「ねじれた古典主義」と評される。それは、古典的な彫刻の技法や人体表現を踏まえつつも、それを大胆に歪め、変形させることによって、独自の詩情とエネルギーを生み出すものであった。
作品は、その物理的なサイズに関わらず、常にモニュメンタル(記念碑的)な性格を帯びている。人物像の筋肉は、解剖学的な正確さよりも表現的な効果が優先され、極端に引き伸ばされ、誇張される。顔立ちは深く彫り込まれ、苦悩、怒り、あるいは恍惚といった強い感情が生々しく表出される。
彼の主題は多岐にわたる。ポーランドの歴史やスラブ神話、聖書の物語、ギリシャ神話といった古典的なテーマから、現代の出来事、エロティシズム、そして彼自身の内面世界に至るまで。しかし、それらは常に、原始的な力強さ、英雄的なスケール感、そしてどこか神秘的な雰囲気によって貫かれていた。
前述の通り、古代メソアメリカ美術からの影響は顕著であり、その装飾性やシンボリズム、異様な力強さは、シュカルスキの作品に独特の風格を与えている。同時に、彼は同時代の芸術運動にも敏感であった。未来派が追求した動きとエネルギーの表現、印象派(特にロダン)に見られる感情の表出、キュビスムの幾何学的な形態分析といった要素を吸収し、自らのスタイルへと昇華させていったのである。
代表的な作品としては、初期の『苦痛 (Pain)』、ミツキェヴィチ記念碑のデザイン、ピウスツキ元帥の胸像、戦争中に破壊されたボレスワフ1世勇敢王の記念碑構想などが挙げられる。晩年に構想されたプロジェクト、例えばフランスのレジスタンスに捧げられた『プロメテウス (Prometheus)』(1943年)、フランスへの返礼として構想された巨大な『ガリアの雄鶏 (Rooster of Gaul)』(1960年頃)、ソ連によるポーランド人虐殺を追悼する『カティンの森 (Katyn Forest)』(1979年)、ポーランド人初のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に捧げる『ヴェネツィア市のための記念碑 (Monument for the City of Venice)』(1982年)なども、実現こそしなかったものの、彼の尽きることのない創造力と壮大なヴィジョンを示している。
当時の評価は、賛否両論であった。1920年代には、間違いなくポーランドを代表する芸術家の一人と目され、「ポーランドで最も偉大な存命芸術家」と称賛された。ベン・ヘクトは、若き日の彼を「飢え、筋肉質で、貴族的で、劣った存在を軽蔑する」と評し、その強烈な個性を伝えている。後年、シュルレアリスムの画家エルンスト・フックスは、「シュカルスキは20世紀のミケランジェロであり、おそらく次の時代のミケランジェロでもあるだろう」と最大級の賛辞を送った。しかし、その過激な言動や思想は、常に批判と反発を招き、彼の評価を複雑なものとした。
晩年、再発見、そして遺産
カリフォルニアでの後半生、シュカルスキは彫刻家としてよりも、ゼルマティズムの研究者、あるいは孤高の思想家としての側面を強めていった。そんな彼に転機が訪れたのは、1971年のことであった。アートコレクターであり、アンダーグラウンド・コミックスの出版者でもあったグレン・ブレイとの出会いである。ブレイはシュカルスキの芸術とその奇妙な理論に魅了され、親交を結ぶ。彼はシュカルスキの作品を収集し、その記録・保存に努め、1980年には『Szukalski: Troughful of Pearls』、1982年には『Szukalski: Inner Portraits』といった作品集を出版。忘れられかけていたシュカルスキの芸術を、再び世に紹介する上で重要な役割を果たした。
そして、もう一つの重要な出会いが、1983年以降に深まった、俳優レオナルド・ディカプリオとその父、ジョージ・ディカプリオとの交流である。ジョージはアンダーグラウンド・コミックス界隈で活動しており、ブレイを通じてシュカルスキと知り合った。ディカプリオ一家は、風変わりだが魅力的な老芸術家シュカルスキを温かく受け入れ、レオナルドは彼を「ポーランド人の祖父」と呼んで慕ったという。この交流は、シュカルスキの死後、彼の再評価に大きな影響を与えることになる。
1980年、妻ジョアンが死去。シュカルスキは、最晩年までゼルマティズムの研究と、実現不可能な壮大な記念碑の構想を続けた。そして1987年5月19日、カリフォルニア州バーバンクにて、93年の波乱に満ちた生涯を閉じた。彼の遺灰は、本人の強い希望により、太平洋の孤島、イースター島のラノ・ララク火山の火口に撒かれた。人類の起源の地であると彼が信じた場所へ、その魂は還っていったのである。
シュカルスキの死後、グレン・ブレイと、そのパートナーであるレナ・ズヴァルヴェは、「シュカルスキ・アーカイブス」を設立。彼の残された作品、手稿、資料の保存と研究、普及活動に尽力している。1990年には初期作品集『The Lost Tune: Early Works (1913-1930)』が出版された。
そして2000年、レオナルド・ディカプリオが資金を提供し、カリフォルニア州のラグナ美術館で大規模な回顧展「Struggle」が開催された。これは、シュカルスキの死後、初めてとなる本格的な再評価の機会であり、大きな注目を集めた。その後も、「The Self-Born」(2005年、サンフランシスコ)、「Mantong and Protong」(2009年、パサデナ)といった展覧会が開催された。
さらに決定的な転機となったのが、2018年にNetflixで配信されたドキュメンタリー映画『 स्ट्रगल: द ライフ アンド ロスト アート オブ スタニスワフ シュカルスキ (Struggle: The Life and Lost Art of Szukalski)』である。レオナルド・ディカプリオがプロデューサーを務めたこの作品は、シュカルスキの数奇な人生、失われた作品、そしてゼルマティズムという奇妙な理論を、ドラマチックに描き出した。これにより、一部の美術愛好家やカルト的なファン以外にはほとんど知られていなかったシュカルスキの名と、その強烈なアートワーク、そして異様な思想が、世界中の幅広い視聴者に知られることとなったのである。
一部では、ゼルマティズムの「イェティンシン」の概念などが、パロディ宗教団体「サブジーニアス教会 (Church of the SubGenius)」の教義に取り入れられているとも言われる。
結論 – 光と影を見つめて
スタニスワフ・シュカルスキの遺産は、単純な賞賛や断罪では語り尽くせない、極めて複雑なものである。その彫刻家としての圧倒的な才能、独創的な芸術言語、そして作品が放つ原始的なエネルギーは、疑いなく20世紀美術における特異な達成と言えるだろう。失われた作品の多さが惜しまれるが、現存する作品やデザイン、そして手稿だけでも、その非凡さは十分に伝わってくる。
しかし、彼の抱いた過激な民族主義、ファシズムへの共鳴、そして反ユダヤ主義といった思想は、現代の倫理観からは到底受け入れられるものではない。ゼルマティズムという巨大な妄想体系は、彼の芸術的想像力と表裏一体であったとしても、その根底にある偏見や陰謀論は、看過することのできない暗部である。
レオナルド・ディカプリオによる再評価の動きは、この忘れられた芸術家に再び光を当てるきっかけとなったが、同時に、その功罪を冷静に見極める必要性も提示している。シュカルスキの人生と作品は、芸術における才能と、個人の思想や人間性とは必ずしも一致しないという、普遍的な問題を我々に突きつける。そして、20世紀という時代が生み出した、ナショナリズムやイデオロギーの熱狂が、一人の天才芸術家をどのように飲み込み、変容させていったのか、その生々しい記録でもあるのだ。
スタニスワフ・シュカルスキ – 彼の作品の持つ力を認め、その芸術的価値を探求すると同時に、その思想的背景にある危険性から目を逸らさず、批判的に検証すること。それこそが、この孤高の巨匠、あるいは狂気の預言者と、現代を生きる我々が向き合うべき姿勢なのである。彼の存在は、芸術の持つ輝きと、人間の心の闇の深さを、同時に我々に示し続けているのだ。
参考文献
https://culture.pl/en/article/polishness-as-religion-the-mystical-delirium-of-a-nationalist-artist
コメント
コメントを投稿