黒人加速主義

黒人加速主義――この言葉は、単に「黒人による加速主義」や「黒人性に関する加速主義理論」を指し示すものではない。それは、より根源的な主張を内包する。すなわち、黒人性(ブラックネス)の領域には常に加速主義が内在しており、逆に黒性は構造的に加速主義的であるという、相互不可分な関係性の提示である。黒人加速主義は、黒人性の視点から既存の加速主義を批判するだけではなく、加速主義が依拠する資本の運動そのものが、黒人性という歴史的・存在的経験と分かち難く結びついていることを暴き出す。本稿は、この黒人加速主義を、現代思想における右派および左派加速主義が抱える理論的・歴史的盲点を克服する、必然的な代替案として詳細に論じるものである。

加速主義の系譜とその袋小路:主体と非人間性の間で

加速主義の基本的な考えは明快である。資本主義から脱出する唯一の道は、資本主義を内部から貫通し、その固有の傾向――絶えざる変異、自己増殖、異化、抽象化――を極限まで加速させることにある、とする。しかし、この基本戦略から派生した潮流は、深刻な理論的袋小路に迷い込んでいる。

  • 右派加速主義:思想家ニック・ランドらに代表されるこの潮流は、資本主義の持つ破壊的で非人間的な力を積極的に肯定し、それを無限に加速させることで、既存の人間中心主義的な秩序(ヒューマニズム)を解体し、究極的には種の自己破壊すら辞さない虚無的な破局への意志を表明する。ここでは人間は、資本の自己展開プロセスにおける一時的な乗り物、あるいは克服されるべき障害物と見なされる。その反人間主義は徹底している。

  • 左派加速主義アレックス・ウィリアムズニック・スルニチェクらが提唱したこの潮流は、ランドの虚無主義と反人間主義に反発し、資本主義が生み出した技術(特に自動化技術、情報通信技術)を、ポスト資本主義、すなわち労働からの解放(ポスト労働社会)や普遍的ベーシックインカムといった解放的計画へと転用・加速させる可能性を探る。彼らは、技術的加速を通じて新たな社会的主体性や階級意識を形成し、資本主義を乗り越えようと試みる。しかし、この試みは、ランドが冷徹に受け入れた「人間の陳腐化」という帰結から目を背け、「人間(プロレタリアート)」という主体を、資本の運動の中心に再び据えようとする点で、本質的な矛盾を孕む。左派加速主義は、資本の非人間的な運動法則を直視することを避け、自己同一性、労働、実践可能性といった人間中心的な枠組みに固執することで、加速主義本来の根源的な射程を自ら限定してしまっている。

両者に共通するのは、資本の非人間的な力と、それに抗う(あるいはそれを利用しようとする)「人間」主体との間の緊張関係である。特に左派加速主義は、「資本の運動を導き、あるいはそれに介入しうる主体とは誰か?」という問いに絶えず直面する。ウィリアムズが提唱した、資本を「異質な生命体」として理解し、従来の疎外論(労働という「魂の盗難」)を超えた価値理論と「根源的に非人間的な主体のあり方」を模索する試みは、この困難に対する一つの応答であるが、その主体を具体的に見出すには至っていない。

忘却された起源:人種資本主義という暗部

既存の加速主義が抱える理論的困難の根源には、より深刻な、歴史的かつ構造的な盲点が存在する。それは、資本蓄積の原初的かつ継続的なプロセスにおける、人種、特に大西洋奴隷制と黒人奴隷労働の決定的役割の完全なる忘却である。未来、資本の論理、世界の終わり、人間中心主義との格闘といった主題において、加速主義と黒人ラディカル思想(アフロフューチャリズム、アフロペシミズム等、黒人の経験から未来や存在を問い直す思想潮流)は驚くほど共通の関心を持っているにも関わらず、加速主義の主要な論者は、この豊かな知的・歴史的資源との対話を体系的に怠ってきた。

この致命的な欠落を照らし出すのが、セドリック・ロビンソンが提唱した人種資本主義の概念である。ロビンソンは、資本主義が単に既存の人種的差異を利用したのではなく、その発展プロセス自体が人種的な構造と不可分であり、特に近代資本主義の始動は、文字通り「アフリカ大陸の陵辱」、すなわち黒人奴隷の強制労働と彼/彼女らの身体の商品化によって駆動されたことを明らかにした。この視座なしに、資本の「加速」を語ることは、その起源と本質を見誤ることになる。

人種資本主義論は、マルクス主義の始原的蓄積論にも根源的な修正を迫る。思想家イイコ・デイらが論じるように、始原的蓄積は単なる資本主義前史の出来事ではなく、人種化された集団に対して永続的に作用する構造である。そして、そこで中心となるのは、土地や生産手段からの「プロレタリアート」の分離・疎外だけではない。奴隷の場合、問題は労働力の収奪に留まらず、身体そのものの剥奪であり、存在そのものが商品として流通し、蓄積されるという特異な形態をとった。

フランク・ワイルダーソンは、この奴隷の存在論的位置をさらに鋭く分析する。奴隷は、近代的な市民社会や価値(人間中心主義、自由、労働)の体系を構築するための「外部」として、構造的に必要とされながら、その体系からは原理的に排除される存在である。彼/彼女らは、疎外された「労働者」ですらない。むしろ、「人間でありながら人間でない」、物(オブジェクト)と主体(サブジェクト)の境界を揺るがす、矛盾した存在として位置づけられた。彼/彼女らは、単に労働力を提供するのではなく、資本そのものであり、商品であり、投機対象であり、その存在自体が価値の源泉と見なされたのである。

黒人性という(非)主体:加速主義への歴史的応答

この人種資本主義と奴隷制の分析は、加速主義、特に左派加速主義が理論的に探求していた問いに対して、衝撃的な歴史的解答を提示する。

思想家ロナルド・ジュディが精緻に論じたように、人種資本主義下の黒人は、単なる労働力供給者ではなく、物=主体という存在論的カテゴリーに位置づけられた。黒人の身体は、それ自体が投機的価値を持つ資本であり、商品であった。この構造は、クリスティーナ・シャープが「奴隷制の後生」と呼ぶように、奴隷制廃止後も形を変えて存続している。現代においても、黒人性や黒人の文化、イメージは、メディア、音楽、スポーツ、さらには監視システムや刑務所産業複合体を通じて、絶えず収奪され、消費され、投機的な価値を生み出す対象となっている(思想家ジャレッド・セクストン)。

まさにこの歴史的経験において、左派加速主義が理論的に希求した「疎外の外側にある主体性」や「根源的に非人間的な主体のあり方」が、既に、そして否定的な形で具現化されていたのである。黒人性は、加速主義が前提としがちな「人間/資本」という単純な二項対立を、その存在自体によって中断させる。黒人は、この対立の一方の極に属するのではなく、両者を同時に、かつ相互に構成するものとして歴史的に形成されてきた。

批評家コドウォ・エシュンの鋭い指摘、「ほとんどのアフリカ系アメリカ人は、人間の地位に何も負うていないという感覚がある」は、この文脈で理解されねばならない。それは、近代人間中心主義が普遍的なものとして提示した「人間」のカテゴリーが、実際には人種的な排除(特に黒人の非人間化)を前提として構築されてきたことへの、根源的な認識から生じている。この「非人間性」は、外部から押し付けられた汚名であると同時に、既存の価値体系に対する根源的な批判の基盤ともなりうるのだ。

黒人加速主義:反人間主義の系譜と未来の共犯者

黒人加速主義は、この黒人性に刻まれた歴史的経験と、それに呼応する黒人ラディカル思想の系譜に深く根差している。シルヴィア・ウィンターのような思想家は、西洋人間中心主義が定義する「人間(Man)」の概念が、人種的・植民地主義的な排除に基づいていることを喝破し、この規範的な「人間」像に対する代替的な存在様式、すなわち一種の反人間主義/非人間主義を、黒人の解放的実践の核心として長らく主張してきた。

黒人加速主義は、この伝統を受け継ぎ、黒人性に内在する非人間性/反人間主義を、単なる被害の痕跡としてではなく、資本主義と人間中心主義の限界を突破するための、積極的かつ本質的な特徴として捉え直す。したがって、思想家マッケンジー・ウォークが示唆するように、黒人の非人間性を「肯定的に再利用する」という発想は、黒人加速主義の観点からは不十分である。それは「再利用」されるべき外部の属性なのではなく、既に黒人性の構造に深く組み込まれた、内在的なダイナミズムなのである。

この文脈において、アフロフューチャリズム(黒人の歴史と未来をSF的想像力で描く文化運動・思想)は、黒人加速主義と対立するものでも、単なる先行現象でもない。むしろ、兄弟であり共犯者として理解されるべきである。サン・ラーの宇宙神話、オクテイヴィア・バトラーの異種混淆的な未来像、デトロイト・テクノの機械的な魂、そしてラッパー、バスタ・ライムスの一連の黙示録的アルバム群に見られる終末論、技術への異様な執着、非人間的な変容への渇望は、すべて世界の終わり、資本の加速、そして「人間」のカテゴリーの解体といったテーマに対する、黒人性固有の視点からの根源的な参与であり、黒人加速主義的な衝動の表現形態と見なすことができる。

結論:人間のための革命を超えて、黒人加速主義の地平へ

黒人加速主義は、既存の加速主義が直面した理論的ジレンマ――「継承された人間のイメージ」を保持するか、それとも「生産手段自身の革命」、すなわち資本の非人間的な運動に身を委ねるか――に対する、歴史的に根拠づけられた解決策を提示する。この二者択一は、人種資本主義の現実を無視した抽象的な問い立てに過ぎない。

なぜなら、黒人の身体――歴史的に生きた資本であり、投機的価値であり、蓄積された時間そのものであった存在――において、この二つの契機は既に弁証法的に合流しているからだ。黒人の(非)主体性は、人間的なものと非人間的なもの、有機的なものと技術的なもの、労働と資本といった対立項が交差し、相互浸透する特異点として現れる。

思想家ジャック・カマットが予見した「人間のためではない革命」が存在するとすれば、それはまさに、人種資本主義によって「人間」のカテゴリーから構造的に排除され、物=主体として位置づけられてきた黒人の経験から立ち上がる革命、すなわち「黒人のための革命」であると、黒人加速主義は主張する。それは、感傷的な人間賛歌や、単純な技術至上主義を排し、資本の加速とその人種的起源、そしてそれに伴う非人間化の現実を冷徹に直視することから始まる。

黒人加速主義は、単なる理論的遊戯ではない。それは、資本主義の最も暗い淵を凝視し、そこに刻まれた黒人性の経験を通じて、人間中心主義の欺瞞を超えた、真に根源的な未来への回路を開こうとする、知的かつ政治的な計画なのである。

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