サントーム

精神分析の巨人ジャック・ラカン。彼の思索の軌跡は、言語、主体、無意識といった領域を巡り、我々の自己理解に絶えざる問いを投げかけてきた。その晩年、ラカンは一つの特異な概念に行き着く。それが「サントーム(Sinthome)」である。これは単なる専門用語の追加ではない。それは、ラカン思想の核心に触れ、精神分析の射程そのものを問い直す、深遠かつ挑発的な概念なのだ。本稿では、このサントームという概念を、その背景から機能、具体例に至るまで、可能な限り丁寧に、しかしその硬質な手触りを失うことなく解き明かしていく。

1. 「症状」を超えて:なぜ「サントーム」なのか?

サントームとは、現代フランス語における「症状(symptôme)」の古風な綴りである。しかし、ラカンがこの古い言葉を蘇らせたのは、ノスタルジーからではない。彼は、従来の精神分析が扱ってきた「症状」概念—すなわち、抑圧された無意識のメッセージであり、解釈を通じて解消されるべきもの—とは異なる、より根源的で構造的な次元を指し示す必要性を感じていたのだ。

フロイトにとって症状は、苦痛ではあるが、同時に無意識の真理へと至る道であり、ある種の妥協形成、治癒への試みでもあった。ラカン自身も初期には、症状を主体が言語(象徴界)の秩序の中に、他者との関係性の中に自らを刻み込むための重要な契機として捉えていた。

だが、ラカンの思索は深化する。特に精神病の構造や、言語だけでは捉えきれない「現実界」という領域への関心を深める中で、従来の「症状」概念では不十分であることが明らかになってくる。主体を根底から支え、時に言語的解釈を寄せ付けないような、より根本的な「結びつき」や「様式」が存在するのではないか。この問いに対するラカンの応答が、「サントーム」なのである。それは、分析によって解きほぐされる対象というよりも、むしろ主体が存在するための不可欠な、そしてしばしば分析不可能な核として提示される。

2. ボロメオの結び目:精神構造のトポロジー

サントームの機能を理解する上で決定的に重要なのが、ラカンが後期に導入した「ボロメオの結び目」というモデルである。これは、人間の精神構造を、位相幾何学(トポロジー)を用いて視覚的に捉えようとする試みだ。この結び目は、三つの輪が互いに絡み合うことで構成される。

  • 想像界(Imaginaire, I): 自己イメージの世界。鏡に映る自分(鏡像段階)との同一化に始まり、他者との直接的なイメージの同一化やライバル関係が展開される領域。ナルシシズムや自己愛と深く関わる。

  • 象徴界(Symbolique, S): 言語、法、文化、社会的な規則や慣習によって構成される秩序の世界。「シニフィアン(意味するもの)」の連鎖が支配し、主体は言語によって規定される。「他者(大文字の他者)」の存在が不可欠であり、この秩序への参入を保証する鍵となるのが、しばしば「父の名(Nom-du-Père)」と呼ばれる象徴的な機能である。これは、単なる生物学的な父親ではなく、法や禁止、去勢といった構造を導入する象徴的な代理者である。

  • 現実界(Réel, R): これが最も捉え難い領域である。言語やイメージ(象徴界や想像界)による把握から根本的にこぼれ落ちるもの、意味付けを拒むもの、トラウマ的なもの、構造の欠如そのものなどを指す。それは、言葉になる以前の、あるいは言葉にならない、生々しい存在の次元である。

ボロメオの結び目の標準的な形では、このR・S・Iの三つの輪が、互いに直接は繋がっていないにもかかわらず、全体として解けないように結びついている。一つの輪を切断すると、残りの二つもバラバラになってしまう、という相互依存の関係にある。これが、ラカンが想定した、ある種の理想的な精神構造のモデル(ただし、完全に「健康」な主体など存在しない、というのがラカンの基本的な立場であるが)である。

3. 結び目の「失敗」と「第四の輪」としてのサントーム

しかし、現実の主体において、この結びつきは常に完璧ではない。ラカンは、特に神経症や精神病において、この結び目に「失敗(ratage)」が生じていると考える。

  • 神経症: 三つの輪の結びつきが、どこか不完全であったり、誤った箇所で結ばれていたりする。例えば、象徴界の機能が過剰になり、現実界が覆い隠されたり、想像的な関係に固着したりする。症状は、この結び目の歪みや修復の試みとして現れる。

  • 精神病: より根本的な結び目の問題が生じる。例えば、三つの輪が一直線に連なってしまったり、一つの輪(特に想像界など)が他の二つから完全に離脱してしまったりする。ラカンによれば、これは多くの場合、「父の名」が象徴界に登録されず、「排除(forclusion)」されていることと関連する。父の名という、結び目を安定させるための重要な楔(くさび)が欠けているため、RSIの結びつきそのものが構造的に脆弱になっているのだ。

このような結び目の「失敗」、特に精神病構造における根本的な脆弱さに直面した時、主体はどのようにして精神的な崩壊を免れるのか? ここで登場するのが、サントームである。ラカンの理論において、サントームは、この失敗した結び目を補い、バラバラになろうとするR・S・Iを繋ぎ止める「第四の輪」として機能する。それは、既成の象徴的秩序(父の名など)に頼るのではなく、主体が独自に見つけ出し、編み出した、いわば「間に合わせの(bricolage)」あるいは独創的な解決策であり、存在を支えるための最後の砦なのである。

4. ジョイスを読む:サントームの具体例

ラカンがサントーム理論を展開する上で、繰り返し参照したのが、アイルランドの文学の巨匠、ジェイムズ・ジョイスである。ラカンは、ジョイスのテクストや伝記的資料を詳細に分析し、彼の精神構造に「父の名」の排除を示唆する特徴を見出す。ジョイスの父親は、その存在感が希薄であったり、父親としての規範的な役割を果たしていなかったりしたとされ、これがジョイスにとって象徴界における根本的な欠如となった可能性をラカンは指摘する。

通常、このような構造は精神病の発症(例えば、妄想の形成など)に繋がりやすい。しかし、ジョイスはそうならなかった。彼はその代わりに、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』といった、言語そのものを解体し再構築するような、前代未聞の文学作品を創造した。

ラカンは、このジョイスの「書くこと(écriture)」そのものが、彼のサントームとして機能したと考えた。それは単なる趣味や職業としての執筆ではない。ジョイスにとって書くことは、自身の存在そのものを賭けた実践であり、言語(ラカンはこれを「ララング lalangue」—言語が個人的な享楽や無意識と結びついた、より原初的な次元—と呼ぶ)との格闘を通じて、機能不全に陥った「父の名」に代わる「第四の輪」を自ら作り出す行為だったのだ。彼の固有名(James Joyce)への異常なまでの執着、名声への渇望、そして彼の「アート」における特異なエゴのあり方—これら全てが、RSIの三つの輪を結びつけ、精神的な破綻を防ぐための、ジョイス固有のサントームを構成していた、というのがラカンの読解である。ジョイスの文学は、彼の生存戦略そのものであったのだ。

5. サントームの諸相:享楽、特異性、創造性

サントームは、単に構造を補修する機能を持つだけではない。それは、主体の存在様式そのものに関わる、いくつかの重要な側面を持つ。

  • 享楽(Jouissance): ラカン理論における「享楽」とは、単なる快楽ではない。それは、快と苦が分かち難く結びついた、しばしば過剰で破壊的な、言語化し難い根源的な満足である。サントームは、この主体の特異な享楽のあり方と密接に結びついている。主体は、サントームによって規定される固有の様式(例えば、ジョイスの書くことへの強迫的な没頭)を通じて、ある種の苦痛を伴いながらも、根源的な享楽を得ている。だからこそ、主体はそのサントームから容易には離れられない。それは、生きる上での「やり方」そのものなのだ。

  • 特異性(Singularity): サントームは、主体を他の誰でもない「この私」たらしめる、最も根源的な特異性の刻印である。それは、普遍的な法則や規範から外れた、その人だけのユニークな現実との関わり方、存在の仕方を示す。

  • 創造性(Creativity): サントームは、苦しみや困難の源であると同時に、ジョイスの例が示すように、その人固有の創造性の源泉ともなりうる。既存の枠組みが機能しないからこそ、主体は独自の解決策、新たな表現形式、生き方を「発明」せざるを得なくなる。サントームは、破壊の危険と創造の可能性を同時にはらんでいる。

6. サントームの射程:普遍性と精神分析の行方

ジョイスの事例は確かに劇的だが、ラカンはサントームを精神病や天才だけの特権とは考えない。彼はさらに踏み込み、伝統的に主体を安定させると考えられてきた「父の名」そのものも、実は数あるサントーム(症状)の一つに過ぎないのではないか、というラディカルな問いを投げかける。もしそうだとすれば、程度の差や形態の違いこそあれ、あらゆる主体は何らかの固有のサントームを持っていることになる。我々は皆、それぞれのやり方でRSIを結びつけ、現実界の穴(欠如)と折り合いをつけながら、それぞれの「結び目」によって生きているのだ。

この視点は、精神分析の目的をも問い直す。分析の目標は、サントームを完全に取り除き、「正常」な状態(理想的なボロメオの結び目)にすることではないのかもしれない。むしろ、主体が自身のサントームを「同定(identify with)」し、それが自らの存在にとっていかに不可欠であるかを認識し、そしてそれと共に「やっていく(savoir y faire)」方法—つまり、それを飼いならし、あるいは創造的に活用する術—を見出す手助けをすることにあるのではないか。分析家自身もまた、分析過程において、主体にとっての一時的なサントームとして機能することもあるだろう。

サントーム概念は、現代のラカン派精神分析においても活発な議論の対象であり、「補完(suppléance)」といった類似の概念との関係も問われている。しかし、その核心にあるのは、主体がいかにして言語と現実の狭間で、固有の存在様式を—しばしば無意識のうちに—構築していくのか、という問いである。

結論:思考を穿つ深淵、サントーム

ラカンのサントームは、一筋縄ではいかない複雑で多層的な概念である。それは、症状、構造、享楽、創造性、そして存在そのものを巡る問いを、ボロメオの結び目というトポロジーを用いて大胆に架橋しようとする試みだ。サントームは、我々が自明と考えている精神の安定性がいかに precarious(不安定)であり、そしてそれを支えるために我々がいかに独創的な(そして時に奇妙な)方策を編み出しているかを暴き出す。それは、精神分析の限界を示すと同時に、人間存在の深淵—言語化を拒む現実界と格闘し続ける主体の姿—を思考するための、強力かつ不可欠な知的道具なのである。この概念と向き合うことは、我々自身の存在の「結び目」について、改めて深く問い直す経験となるであろう。

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